2013年04月27日

Patrick Cariou v. Richard Prince事件、第2巡回区控訴裁判所判決についてのメモ

 Cariou事件判決を、ざっと読了した感想。
 本件は、コラージュ的手法を用いる現代アートについて、フェア・ユースの成否が争われたものであり、地裁はそれを否定していた。
 控訴裁判決の基本的な流れは、Campbell事件最高裁判決の論理をなぞったものであるといえる。その意味で新鮮さはない。ただ特に注目すべきは、

  「地裁は、フェア・ユースの抗弁が成立するためには、二次的利用は『原作品
   を批評したり、その歴史的文脈に関係したり、批判的に言及したり、しなけ
   ればならない』旨求めた。・・・しかしながら、地裁の法的根拠は間違って
   いる。法は、transformativeであるとされるために、作品が原作品やその作
   者について批評するものであることを要件とはしていない。二次的作品が、
   たとえ(筆者注:107条の)条文に特定された目的(批判、批評、ニュース報
   道、教授、学術、および研究)以外の目的のためのもであったとしても、当
   該二次的作品はフェア・ユースたりうる。むしろ、最高裁も当裁判所の複数
   の裁判例も強調してきたように、フェア・ユースたりうるためには、新しい
   作品は、通常、原作品に『新しい表現や意味、メッセージ』を添えて変化さ
   せなければならないのである。」

と述べた部分であろう。というのも、Campbell事件最判が、parodyに関するものであり、かつ、parodyを原作品に対する批評の一種として位置づけたために、同じ風刺的作品であっても、原作品自体を批評しないもの(一般にsatireと呼ばれる)について、フェア・ユースが認められるかどうかについては、議論があり、裁判例も、否定的に解するものと肯定的に解するものに分かれていたからである。この点の議論状況については、拙稿「米国著作権法におけるParody」著作権研究37号(2010)にまとめたので、若干長くなるが、以下に引用する。

〜引用開始〜

1 Campbell事件最判の基本線
 ここで、 Campbell事件最判の判断枠組みを改めてまとめると次のようになろう。

     フェア・ユースの検討においては,被告の作品がtransformativeである
    か否かが重要であり、 transformativeな場合は、被告の利用が商業目的で
    あってもフェア・ユースとなりうる。また、商業目的の利用の場合、被告
    作品が原告作品の市場を代替することが推定されるのが常だが、
    transformativeな場合にはその推定はあてはまらない。Parodyはそこで利
    用される作品自体を部分的にでも標的として批評する、批評の一形式であ
    り、見せかけでなければtransformativeでありうる(以上、フェア・ユー
    スの第1要素関連)。Parodyは、標的となった作品を想起できなければ成
    立しないため、 parodyという目的に照らして合理的な範囲――もっとも標
    的となった作品を想起するのに必要最小限の範囲には限られない――であ
    れば、標的となった作品の核となる部分からの借用行為も正当化される
    (第3要素関連)。  
     Parody自体は標的となった作品と競合せずその市場に害を与えないし、
    parodyの標的となった作品の作者は、parodyを派生物として許諾すること
    もないであろうから、parodyが派生物の市場を害すこともない(第4要素
    関連)。なお、以上のような場合、標的となった作品の創造性の高さは、
    フェア・ユースを判断する上で重視されない(第2要素関連)。

 以上がCampbell事件最判の判断枠組み、いわば基本線とでも呼ぶべきものである。
 この基本線が、先に取り上げた後続裁判例において、どのように扱われてきたかであるが、この点、詳しい説明は不要であるように思われる。例えば、フェア・ユースが肯定的に解された、Leibovitz事件、Suntrust Bank事件、Mattel事件、Blanch事件では、いずれも基本線に沿った判断が示されている。最も典型的なparodyの事例と思われるSuntrustBank事件――Y5の作品は、 X5の作品そのものへの批評となっており、またX5の作品を下敷きに新しい物語を展開した点でもtransformativeな作品である――において、基本線が踏襲されていることは当然としても、Blanch事件のように、parodyではない風刺的作品に関する事件においても、transformativeであることが認められた後は、ほぼ基本線に沿った判断が進められている。また、フェア・ユースが否定的に解されたDr.Seuss事件、 Salinger事件では、第1要素に関して、parodyにあたらず、transformativeでもないと判断された後は、parodyではないのだから残りの要素については基本線に当てはまらないはずであり、そのことを確認するような形で判断が進められている。これも、基本線に沿った判断の一種といえるだろう。さらに、parodyや風刺的な作品の事件とはいえなかったCastle Rock事件でも、基本線と矛盾するような流れでの判断はなされていない。
 このように、後続判決は、基本線を踏襲することには特に問題は感じていないようである。むしろ、問題は、基本線の鍵となる、parody該当性、transformative該当性の部分であり、この点をどう判断するかという点に、後続判決の「苦労」が認められるように思う。項を改めて考えたい。

2 ParodyとSatire

 基本線をみても分かるように、Campbell事件最判はparodyを狭く解する。その結果、風刺的作品でもparodyに含まれないものが出てくる。具体的には利用した作品「以外のもの」のみ、例えば社会そのものや事件などのみが批評の標的である場合、parodyとは解されず、 satireなどと呼ばれて区別されることとなる。本稿で取り上げた後続判決でいえば、 Dr. Seuss事件の場合は、批評の対象はO.J. Simpson裁判であったし、 Blanch事件の場合は原告の写真が典型とするジャンルや社会風潮が批評の対象となっており、 Salinger事件においては、Salingerその人が批評の対象となった。いずれも,それぞれの作品における批評の対象は、利用される著作物そのものではない。このように利用される著作物以外のものを批評することのみが目的の風刺的作品の場合、なぜその著作物を利用する必要があるのか、という疑問が生じることは否定できないだろう。
 基本線はparodyに関するものであるため、satireのように、parodyではないとされた風刺的な作品の場合、どのように判断すべきか。この点で、後続判決には「揺らぎ」があるように思われる。
 Campbell事件最判の理屈からいえばparodyはtransformativeな利用の一例であるから、 parodyであれば多くの場合transformativeとなるが、一方でparodyではなくともtransformativeでありさえすればフェア・ユースが成立する余地は出てくる。事実同最判は、「parodyは、その主張を行うために、原作品をまねする必要があり、そのためその犠牲者……の創造力の産物を利用する何かしらの資格があるが、一方でsatireはそれ自身で自立するので、借用行為に関して正当化を必要とする」と述べており、他人の著作物を利用することを正当化できれば、satireでもフェア・ユースになり得ることを示唆しているといえよう。
 この点、Dr. Seuss事件判決は、どちらかというと厳格な立場を採っているように思われる。同事件の被告は、O. J. Simpson裁判を風刺するためにThe Catのキャラクターを利用したが、裁判所は、 parodyに当たらないと判断した後は、それ以上詳しく検討することなく、当該利用は単に耳目を引くための行為にすぎなかったとしてtransformativeではないと結論づけている。つまり、parodyではない場合、借用行為に正当化の余地をほとんど認めない立場ということになろう。
 一方、Blanch事件の場合は,かなり柔軟な立場といえそうである。すなわち、同判決は、被告の作品であるモンタージュ写真を、parodyではなくてsatireにすぎないと認めながら、他人の著作物と全く別の創作または伝達目的のために、当該他人の著作物を素材として利用するとき、当該利用はtransformativeであるとの基準を示し、その上で、被告の作品は単に耳目を引くためではなくて、創作上の合理的な理由に基づいて他人の著作物を利用しているとして、借用行為を正当化している。
Salinger事件も、考え方としては、柔軟な立場に立っているものと思われる。事実、被告の作品をparodyではないと判断したものの、そこで終わらずにさらに検討を進め、「著者である原告を批判するために、原告のキャラクターを利用した点に関しては、被告作品にparody的でないtransformativeな要素を認めうる」としている。もっとも、その程度では借用行為全部を正当化するには足りないとして、フェア・ユースを認めなかったから、基本的な考え方は柔軟でも、結論は厳しかったといえるかもしれない。
 このように、後続する判決をみる限り、satireのようなparodyではない風刺的作品の場合について、transformativeとして借用の正当化を認めるかどうかには、事案の違いを横に置いても、少なからぬ「揺らぎ」が存在するように思われる。 Campbell事件最判を素直に読む限り、Dr. Seuss事件判決のような厳格な立場には違和感を覚えなくもないが、この点は、今後の後続裁判例の蓄積の中で明らかにされるべき課題であろう。
 もっとも、ここまでは主として第1要素との関係に焦点を当てて論じてきたが、フェア・ユースとなるためには4つの要素全てについての検討結果を総合考慮する必要があるから、仮に第1要素がフェア・ユースに有利だとしても、そのことだけでフェア・ユースが成立する訳でないのはいうまでもない。
 この点、基本線から明らかなように、parodyと判断されtransformativeであることが認められると、第3要素および第4要素がフェア・ユースに有利に判断されやすくなり、第2要素についても重要性が割り引かれる。しかしながら、parodyの場合に第3要素や第4要素がフェア・ユースに有利となりがちなのは、parodyの特徴が考慮された結果であるから、satireなどの場合は、状況が異なるだろう。
 すなわち、既存の著作物をまねて、それを想起させることで表現として成立するparody だからこそ、既存の著作物の重要な部分を一定程度取り込むことが許容される。しかし、 parodyでない風刺的作品の場合は、そもそも既存の著作物を利用する必然性が弱くなるから、第3要素の検討状況は変わってこよう。また、自身の著作物への批評に対してライセンスする人がいそうにないからこそ、parodyは、著作権者が通常ライセンスする範囲内に入らず、それを害しないと判断されるのであるが、批評の対象が自身の著作物ではなく、社会事象などであるsatireなどの場合、そういった風刺的利用に賛意を示す著作権者を想定することも可能であろうから、第4要素についても事情が異なってくることが考えられよう。
 つまり、parodyでない風刺的作品の場合は、仮に第1要素がフェア・ユースに有利となっても、フェア・ユースの成立は容易でないということになろう。

〜引用終了〜


 このように、parodyとはいえない風刺的作品について、当初はフェア・ユースを認めないDr. Seuss事件のような判決が存在したが、次第に状況は変化し、Blanch事件やSalinger事件の判決のようにフェア・ユースを認める余地を示すものが登場するに至っていた。もっとも、Campbell事件最判の「parodyは、その主張を行うために、原作品をまねする必要があり、そのためその犠牲者……の創造力の産物を利用する何かしらの資格があるが、一方でsatireはそれ自身で自立するので、借用行為に関して正当化を必要とする」との一節の影響力は強く、Blanch事件判決もSalinger事件判決も、「正当化」に苦労していた。
 しかしながら、本判決は、冒頭のように説示することで、そのような苦労とあっさりと決別してしまったのである。仮に本判決のこの論理が、最高裁によって変更されることなく、かつ他の控訴裁による支持を集めるとすると、今後、parodyだけでなくsatireについてもフェア・ユースが認められる余地がかなり拡がることになろう。もっと言えば、コラージュ的手法を用いる現代アートの自由度が増すことになる。
 なお、本件が、第2巡回区控訴裁で争われた時点で、本判決に至る芽は存在したといえるかもしれない。先述の(そして本判決中にも引用される)コラージュ的手法を用いる現代アートをsatireと位置づけながら、フェア・ユースを認めたBlanch事件も同じく第2巡回区控訴裁であったからだ。感想めいたことになるが、第2巡回区の現代アートに対する「理解」は、ニューヨークを管轄地に抱える故なのであろうか。
 最後に、本判決は、被告作品30点中25点については、フェア・ユースを認めたが、のこり5点についてはtransformativeといえるかどうかを中心にフェア・ユース該当性を判断すべく、改めて地裁で審理するようにと事件を差し戻した。この点に関して、フェア・ユースが認められた25点と、差し戻された5点を比較することで、transformativeとは何かを理解する上での手がかりが得られるのではないかと思われる。また、本判決に対する補足意見および反対意見も指摘するように、果たして前記25点についても、「法律問題」として控訴裁がフェア・ユースを判断できるのか否かという興味深い問題も存在する。これらについては、今後更に検討していきたい。

                                  
以上
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2012年04月09日

Viacom v. Youtube 簡単なメモ

 Viacom v. Youtubeの事件、連邦第2巡回区控訴裁判所の判決が出た。
 結論としては、Youtubeの申立を認めた地裁判決を取り消して、事件
を差し戻したので、Youtubeにとって状況が不利になったことは間違い
ない。ただ、結論だけを見ると混乱しかねないので、備忘録的に以下、
簡単にメモ。

・DMCAのセーフハーバーに関する解釈が大きく変わった、潮目が変わ
 ったということではなさそう。
 自分のシステムに侵害が存在するだろうと一般的に認識しているだけ
 では現実の認識や危険信号の認識とはされず、個別具体の認識が求め
 られるという解釈は以前維持されている。
 (従前の解釈の詳細については、拙稿参照。)
 問題は、Youtube社内でのメールなどに、現実の認識をうかがわせる
 記述が存在したこと。証拠の評価・事実認定の問題。

・現実に認識があったと裁判所は結論づけたわけではない。
 地裁は、Youtubeの事実審理省略判決の申立を認めたが、事実審理省
 略判決を出すためには、全ての証拠を申立をしなかった側に有利に解
 釈しても、重要な事実に関する真正な争いがないとされる場合でない
 といけない。本件の場合は、申立をしなかった側(Viacom側)に有利
 に証拠を解すると、現実の認識があったと陪審が判断する可能性があ
 るということで、事件は差し戻された。差し戻された地裁では、どち
 らに有利ということなく判断が行われるため、果たして、事実認定の
 問題として現実に認識があったとされるかどうかまでは分からない。

・控訴裁判所レベルで、動画投稿サイトの運営者について、DMCAの適用
 の有無が争われたのは、本件が初めてではない。
 じつは、第9巡回区控訴裁判所が、UMG v. Veoh事件の控訴裁判決を
 昨年出しており、それでは、サイト運営者はセーフハーバで保護され
 るとした地裁判決が維持されている。(地裁判決については、上記拙
 稿参照。)
 個人的には両判決に齟齬はほとんどないと理解しているが、仮にあっ
 たとしても、第2と第9の判決の重みはほとんど変わらないはずであ
 り、控訴裁間で判決の相違が明らかになったに過ぎない(繰り返すが、
 法解釈論として、ほとんど差はないと思う。)。

・なお、DMCAセーフハーバの文脈で、willful blindness(故意に目を
 覆い、耳を塞ぐこと)法理が適用されうるとしたことは、大きな意味
 を持つと思う。
 ただし、Youtubeがwillful blindnessであったと裁判所が判断したわ
 けではないので、注意。あくまでも、法理としては使えるので、それ
 に当たるかどうか地裁で判断せよと言ったのみ。

他にも論点はあるが、取り急ぎ。
なお、できる限り早く、本件の評釈を執筆するつもり。



 
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2011年06月09日

iTunes Match はすごい(3)

さらに続報。

  Forbsの記事

へえ、IFPIはiCloud Matchを歓迎しているのか。

  PC Proの記事

こちらは、amnestyというよりもcollectionという
感じのまとめ方。

ところで、これまでの情報を前提に考えると、今回
のスキーム、非常によく考えられていると思う。

一見すると、動画投稿共有サイトが、投稿される動
画について、音楽の著作権者と包括ライセンスを
受けているのと同じと思われるかもしれないが、か
なり違うような気が・・・。

確かに、Appleはライセンスを得ているし、ライセン
ス料を権利者に支払うのだけれど、それはロッカー
サービス(ストレージサービス)とは関係のない部
分の話のような気がする。deduplication技術を採用
することで、ユーザの保有している音楽のうち、
iTunesのレパートリーとmatchする曲は、ロッカー
には保管されず、iTunesから利用できるようにな
るだけ。

つまり、ユーザが既に持っている曲については、
iTunes Matchに加入していただければ、iTunes
での利用権を与えましょう、というのが法的に見
た今回のスキームとなる。

したがって、Appleが権利者に支払うライセンス料
は、あくまでも、iTunes Matchによってユーザが
新たに入手した利用権に関するライセンス料に他な
らない。

ということは、ロッカーサービスの利用について
ライセンス料を支払っているわけではないというこ
とになる。

これは結構重要なことで、将来ロッカーサービスに
ついて問題が生じたとき、すなわち、(音楽はまず
問題は生じないだろうから、それ以外の著作物で)
ユーザーがロッカーに保管しているのは自分の著作
権を侵害し、Appleはそれについて二次的侵害責任を
負う的なクレームが著作権者からあった場合、ロッ
カーサービスはフェアユースだと抗弁しても矛盾し
ないはず。
同じことは音楽の権利者にもいえて、今回のスキー
ムでロッカーサービスではなくて、iTunesに関する
ものだとすると、ロッカーサービスについて、将来
誰にどのような主張をするのも自由なまま。

Appleが本当のところどんな契約をしているのか分か
らないので、間違っているかもしれないが、今明らか
な情報から合理的に推測すると、上記のようになるの
が自然と思う。

実によく練られたスキーム。

iTunes Matchはすばらしい。
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2011年06月08日

iTunes Match はすごい(2)

いくつか補足。
まず、pirates amnestyについての関連記事へのリンク。

 ウォールストリートジャーナル日本版
 
 フォーブス(英語)
 
 CNN(英語)

あと、先の記事では

  iTunes Matchを使うと、ユーザのコンピュータ内にあ
  る音楽ファイルをスキャンして、iTunesで提供されて
  いる楽曲と照合して一致(Match)した場合、ユーザの
  iCouldアカウントには、ユーザーのパソコン内の音楽フ
  ァイルではなくて、「iTunesで提供されている高音質の
  ファイル」が保管される。(正確には、保管されるとい
  うよりもiTunesの購入履歴にフラグが立つような感じ?)

としたが、deduplication技術を採用しているとのニュースも
あるので、(・・・)内が近かったよう。
とすると、このiTunes Matchはアップルにもメリットが大き
いということになる。なぜなら、データセンタに冗長なファイ
ルの保管が不要になるから(もっとも、ストレージスペースの
節約ということもあるだろうけど、重要なのはリンクで済ませ
ることで、システムが安定するのだと思う)
関連して

 アルファブロガー小飼弾さんの記事
 「news - iCloudの容量がたった5GB/IDで足りるわけ」

ところで、iTunes Matchを知れば知るほど、MP3.comの
Michael Robertosonは天才だったのだなと。
彼が11年前にリリースしたMy.MP3.comサービスは、「権
利者と契約していない以外は」(←ここ重要)iTunes
Matchと似ている。彼は権利者と契約せず、フェアユースを
主張して敗れてしまったけれど・・・。
ジュリスト2011年6月1日号に「まねきTV・ロクラクU
最判のインパクト 米国における関連事例の紹介 番組リ
モート録がサービスとロッカーサービスの場合」という
記事中にRobertson氏が現在関わっている裁判について
とありあげた記事を書きましたので、ご覧ください。記事
中には前記のdeduplication技術も触れています。
← 有斐閣さんに代わって宣伝)

ということで、iTunes MatchについてRobertson氏はどう
言っているのだろうと思って、彼のtwitterをみると

  Robertson氏のtwitter記事
  
えらく否定的。リンク先の記事を読むと、サーバ型のDRM
が採用されていることが問題との認識のようである。彼曰
く自分はDRM反対派だということであるから、さっきのよ
うにiTunes MatchとMy.MP3.comを並べると失礼かも。

ところで、リンク先の記事中のLalaという会社とAppleの
関係が気になってGoogle先生で検索すると、Robertson氏
が1年半近く前に記事がヒット。

  TechCrunchの記事

なるほど、Lalaという会社を買収して、その技術とビジネ
スモデルをブラッシュアップした訳か・・・。ほとんど正
確に昨日のAppleのリリースの方向性を予測している。
音楽業界にとっては敵なのだろうが、やはりRobertson氏
はすごい。
(ジュリストの記事を書く前にこの記事読んでおくべきだ
った。さらっと紹介できていたら読者の皆さんに情報提供
になっていたろうに。調べが甘かったか・・・)

以上、諸々補足まで。
| 日記

iTunes Match はすごい

昨日発表になったiCloudであるが、新聞報道等からする限り
iTunes Matchはすごいと思う。
(以下、新聞記事・ネット記事・ブログ情報などによるもの
で、勘違いもあるかもしれません。そのときは訂正します。
割り引いて読んでください。)

iTunes Matchを使うと、ユーザのコンピュータ内にある音楽
ファイルをスキャンして、iTunesで提供されている楽曲と照
合して一致(Match)した場合、ユーザのiCouldアカウント
には、ユーザーのパソコン内の音楽ファイルではなくて、
「iTunesで提供されている高音質のファイル」が保管される。
(正確には、保管されるというよりもiTunesの購入履歴にフ
ラグが立つような感じ?)

このサービス、ユーザーとしてはファイルをアップする手間も
不要だし、音質も良くなるし、iTunesの機能も使えるし、と
年額$24.99を支払う魅力のあるサービス。

ただ、著作権の観点からこのサービスがすごいのは次の2点
にある。

まず、世の中のあらゆる音楽をiTunesに同期させ取り込むと
ころ。というのも、iTunes Matchは、楽曲ファイルのフィ
ンガープリントを抽出してscanやmatchに利用する模様。
当然、ユーザの手元の音楽がどこから来たものかは問わな
い(というか、技術的に問えない)ようである。
ということは、例えばamazon.comで購入した音楽でも、
このサービスを使えばiTunes上で利用できるようになる。つ
まり、サービスを乗り換えたから、コンテンツを購入し直す
必要はないことになる。サービスを乗り換えても、コンテン
ツオーナーシップが維持されるのである。
(さらにいうと、普通ならXというサービスで入手した音楽
をYというサービスで利用しようとすると、Xサービスの採用
するDRMを回避する必要が出てくるかもしれないが、今回の
場合は音楽ファイル自体はreplaceするわけなので、DRM周り
の問題もないはず)

次にすごいのは、海外のブログなどで"pirate amnesty"
(海賊に対する恩赦)と呼ばれている部分。
ユーザの手元の音楽の出所を問わないのだとすると、仮に
それが怪しいところから入手した、権利者からすれば許せ
ない存在の音楽も対象になるということである。つまり、
このサービスを利用すれば、そういった音楽も、ライセン
スのあるiTunes上の正規の音楽に変身することになる。
そんなわけで"pirate amnesty"と呼ばれているらしい。
もっとも、amnestyというのが正しいかどうかはよく分か
らなくて(過去の行為が不問になるかは分からない)
"pirate collection"(海賊の更正)が正確かも・・・
また、ボストンヘラルドの記事によると、iTunes Matchの
料金の70%以上はレコ−トレーベルに分配されるそうなの
で、レーベルの立場で見れば、ライセンスのない楽曲から
利益を生み出すことが可能になる、まるでヒートポンプの
ような技術(ヒートポンプとは、エアコンの基本技術であ
り、真冬の寒い外気から「熱」を吸収して、室内を暖房す
る熱として利用している。一見価値(熱)などないような
ところから、価値を生み出すという意味で使ってみた。)
クラウドを用いた音楽利用で、「自炊」が一般化する前に
機先を制した形。

先日来、いくつかのところで、「クラウドコンピューティ
ングと著作権・序説」というタイトルで報告させていただ
いたが、その際キーワードを「同期」「コンテンツオーナ
ーシップ」「権利者とユーザーのイニシアチブ争い(自炊
との競争)」としたが、大きく外れていなかったようで
ホッとした。

 Cloud-1.pdf
 Cloud-2.pdf      いずれも関連部分の抜粋版

ところで、こういったサービスの仕組み、ビジネス部門だ
けでなくて、法務部門もチームを組んで練り上げたはず。
著作権に関する企業法務というと、権利の保護関連の活動、
ライセンス契約、訴訟対応、コンプライアンスなどが思い
浮かぶが、こういったイノベーティブな仕事を実現された
法務関係者は、尊敬します。


| 日記