本件は、コラージュ的手法を用いる現代アートについて、フェア・ユースの成否が争われたものであり、地裁はそれを否定していた。
控訴裁判決の基本的な流れは、Campbell事件最高裁判決の論理をなぞったものであるといえる。その意味で新鮮さはない。ただ特に注目すべきは、
「地裁は、フェア・ユースの抗弁が成立するためには、二次的利用は『原作品
を批評したり、その歴史的文脈に関係したり、批判的に言及したり、しなけ
ればならない』旨求めた。・・・しかしながら、地裁の法的根拠は間違って
いる。法は、transformativeであるとされるために、作品が原作品やその作
者について批評するものであることを要件とはしていない。二次的作品が、
たとえ(筆者注:107条の)条文に特定された目的(批判、批評、ニュース報
道、教授、学術、および研究)以外の目的のためのもであったとしても、当
該二次的作品はフェア・ユースたりうる。むしろ、最高裁も当裁判所の複数
の裁判例も強調してきたように、フェア・ユースたりうるためには、新しい
作品は、通常、原作品に『新しい表現や意味、メッセージ』を添えて変化さ
せなければならないのである。」
と述べた部分であろう。というのも、Campbell事件最判が、parodyに関するものであり、かつ、parodyを原作品に対する批評の一種として位置づけたために、同じ風刺的作品であっても、原作品自体を批評しないもの(一般にsatireと呼ばれる)について、フェア・ユースが認められるかどうかについては、議論があり、裁判例も、否定的に解するものと肯定的に解するものに分かれていたからである。この点の議論状況については、拙稿「米国著作権法におけるParody」著作権研究37号(2010)にまとめたので、若干長くなるが、以下に引用する。
〜引用開始〜
1 Campbell事件最判の基本線
ここで、 Campbell事件最判の判断枠組みを改めてまとめると次のようになろう。
フェア・ユースの検討においては,被告の作品がtransformativeである
か否かが重要であり、 transformativeな場合は、被告の利用が商業目的で
あってもフェア・ユースとなりうる。また、商業目的の利用の場合、被告
作品が原告作品の市場を代替することが推定されるのが常だが、
transformativeな場合にはその推定はあてはまらない。Parodyはそこで利
用される作品自体を部分的にでも標的として批評する、批評の一形式であ
り、見せかけでなければtransformativeでありうる(以上、フェア・ユー
スの第1要素関連)。Parodyは、標的となった作品を想起できなければ成
立しないため、 parodyという目的に照らして合理的な範囲――もっとも標
的となった作品を想起するのに必要最小限の範囲には限られない――であ
れば、標的となった作品の核となる部分からの借用行為も正当化される
(第3要素関連)。
Parody自体は標的となった作品と競合せずその市場に害を与えないし、
parodyの標的となった作品の作者は、parodyを派生物として許諾すること
もないであろうから、parodyが派生物の市場を害すこともない(第4要素
関連)。なお、以上のような場合、標的となった作品の創造性の高さは、
フェア・ユースを判断する上で重視されない(第2要素関連)。
以上がCampbell事件最判の判断枠組み、いわば基本線とでも呼ぶべきものである。
この基本線が、先に取り上げた後続裁判例において、どのように扱われてきたかであるが、この点、詳しい説明は不要であるように思われる。例えば、フェア・ユースが肯定的に解された、Leibovitz事件、Suntrust Bank事件、Mattel事件、Blanch事件では、いずれも基本線に沿った判断が示されている。最も典型的なparodyの事例と思われるSuntrustBank事件――Y5の作品は、 X5の作品そのものへの批評となっており、またX5の作品を下敷きに新しい物語を展開した点でもtransformativeな作品である――において、基本線が踏襲されていることは当然としても、Blanch事件のように、parodyではない風刺的作品に関する事件においても、transformativeであることが認められた後は、ほぼ基本線に沿った判断が進められている。また、フェア・ユースが否定的に解されたDr.Seuss事件、 Salinger事件では、第1要素に関して、parodyにあたらず、transformativeでもないと判断された後は、parodyではないのだから残りの要素については基本線に当てはまらないはずであり、そのことを確認するような形で判断が進められている。これも、基本線に沿った判断の一種といえるだろう。さらに、parodyや風刺的な作品の事件とはいえなかったCastle Rock事件でも、基本線と矛盾するような流れでの判断はなされていない。
このように、後続判決は、基本線を踏襲することには特に問題は感じていないようである。むしろ、問題は、基本線の鍵となる、parody該当性、transformative該当性の部分であり、この点をどう判断するかという点に、後続判決の「苦労」が認められるように思う。項を改めて考えたい。
2 ParodyとSatire
基本線をみても分かるように、Campbell事件最判はparodyを狭く解する。その結果、風刺的作品でもparodyに含まれないものが出てくる。具体的には利用した作品「以外のもの」のみ、例えば社会そのものや事件などのみが批評の標的である場合、parodyとは解されず、 satireなどと呼ばれて区別されることとなる。本稿で取り上げた後続判決でいえば、 Dr. Seuss事件の場合は、批評の対象はO.J. Simpson裁判であったし、 Blanch事件の場合は原告の写真が典型とするジャンルや社会風潮が批評の対象となっており、 Salinger事件においては、Salingerその人が批評の対象となった。いずれも,それぞれの作品における批評の対象は、利用される著作物そのものではない。このように利用される著作物以外のものを批評することのみが目的の風刺的作品の場合、なぜその著作物を利用する必要があるのか、という疑問が生じることは否定できないだろう。
基本線はparodyに関するものであるため、satireのように、parodyではないとされた風刺的な作品の場合、どのように判断すべきか。この点で、後続判決には「揺らぎ」があるように思われる。
Campbell事件最判の理屈からいえばparodyはtransformativeな利用の一例であるから、 parodyであれば多くの場合transformativeとなるが、一方でparodyではなくともtransformativeでありさえすればフェア・ユースが成立する余地は出てくる。事実同最判は、「parodyは、その主張を行うために、原作品をまねする必要があり、そのためその犠牲者……の創造力の産物を利用する何かしらの資格があるが、一方でsatireはそれ自身で自立するので、借用行為に関して正当化を必要とする」と述べており、他人の著作物を利用することを正当化できれば、satireでもフェア・ユースになり得ることを示唆しているといえよう。
この点、Dr. Seuss事件判決は、どちらかというと厳格な立場を採っているように思われる。同事件の被告は、O. J. Simpson裁判を風刺するためにThe Catのキャラクターを利用したが、裁判所は、 parodyに当たらないと判断した後は、それ以上詳しく検討することなく、当該利用は単に耳目を引くための行為にすぎなかったとしてtransformativeではないと結論づけている。つまり、parodyではない場合、借用行為に正当化の余地をほとんど認めない立場ということになろう。
一方、Blanch事件の場合は,かなり柔軟な立場といえそうである。すなわち、同判決は、被告の作品であるモンタージュ写真を、parodyではなくてsatireにすぎないと認めながら、他人の著作物と全く別の創作または伝達目的のために、当該他人の著作物を素材として利用するとき、当該利用はtransformativeであるとの基準を示し、その上で、被告の作品は単に耳目を引くためではなくて、創作上の合理的な理由に基づいて他人の著作物を利用しているとして、借用行為を正当化している。
Salinger事件も、考え方としては、柔軟な立場に立っているものと思われる。事実、被告の作品をparodyではないと判断したものの、そこで終わらずにさらに検討を進め、「著者である原告を批判するために、原告のキャラクターを利用した点に関しては、被告作品にparody的でないtransformativeな要素を認めうる」としている。もっとも、その程度では借用行為全部を正当化するには足りないとして、フェア・ユースを認めなかったから、基本的な考え方は柔軟でも、結論は厳しかったといえるかもしれない。
このように、後続する判決をみる限り、satireのようなparodyではない風刺的作品の場合について、transformativeとして借用の正当化を認めるかどうかには、事案の違いを横に置いても、少なからぬ「揺らぎ」が存在するように思われる。 Campbell事件最判を素直に読む限り、Dr. Seuss事件判決のような厳格な立場には違和感を覚えなくもないが、この点は、今後の後続裁判例の蓄積の中で明らかにされるべき課題であろう。
もっとも、ここまでは主として第1要素との関係に焦点を当てて論じてきたが、フェア・ユースとなるためには4つの要素全てについての検討結果を総合考慮する必要があるから、仮に第1要素がフェア・ユースに有利だとしても、そのことだけでフェア・ユースが成立する訳でないのはいうまでもない。
この点、基本線から明らかなように、parodyと判断されtransformativeであることが認められると、第3要素および第4要素がフェア・ユースに有利に判断されやすくなり、第2要素についても重要性が割り引かれる。しかしながら、parodyの場合に第3要素や第4要素がフェア・ユースに有利となりがちなのは、parodyの特徴が考慮された結果であるから、satireなどの場合は、状況が異なるだろう。
すなわち、既存の著作物をまねて、それを想起させることで表現として成立するparody だからこそ、既存の著作物の重要な部分を一定程度取り込むことが許容される。しかし、 parodyでない風刺的作品の場合は、そもそも既存の著作物を利用する必然性が弱くなるから、第3要素の検討状況は変わってこよう。また、自身の著作物への批評に対してライセンスする人がいそうにないからこそ、parodyは、著作権者が通常ライセンスする範囲内に入らず、それを害しないと判断されるのであるが、批評の対象が自身の著作物ではなく、社会事象などであるsatireなどの場合、そういった風刺的利用に賛意を示す著作権者を想定することも可能であろうから、第4要素についても事情が異なってくることが考えられよう。
つまり、parodyでない風刺的作品の場合は、仮に第1要素がフェア・ユースに有利となっても、フェア・ユースの成立は容易でないということになろう。
〜引用終了〜
このように、parodyとはいえない風刺的作品について、当初はフェア・ユースを認めないDr. Seuss事件のような判決が存在したが、次第に状況は変化し、Blanch事件やSalinger事件の判決のようにフェア・ユースを認める余地を示すものが登場するに至っていた。もっとも、Campbell事件最判の「parodyは、その主張を行うために、原作品をまねする必要があり、そのためその犠牲者……の創造力の産物を利用する何かしらの資格があるが、一方でsatireはそれ自身で自立するので、借用行為に関して正当化を必要とする」との一節の影響力は強く、Blanch事件判決もSalinger事件判決も、「正当化」に苦労していた。
しかしながら、本判決は、冒頭のように説示することで、そのような苦労とあっさりと決別してしまったのである。仮に本判決のこの論理が、最高裁によって変更されることなく、かつ他の控訴裁による支持を集めるとすると、今後、parodyだけでなくsatireについてもフェア・ユースが認められる余地がかなり拡がることになろう。もっと言えば、コラージュ的手法を用いる現代アートの自由度が増すことになる。
なお、本件が、第2巡回区控訴裁で争われた時点で、本判決に至る芽は存在したといえるかもしれない。先述の(そして本判決中にも引用される)コラージュ的手法を用いる現代アートをsatireと位置づけながら、フェア・ユースを認めたBlanch事件も同じく第2巡回区控訴裁であったからだ。感想めいたことになるが、第2巡回区の現代アートに対する「理解」は、ニューヨークを管轄地に抱える故なのであろうか。
最後に、本判決は、被告作品30点中25点については、フェア・ユースを認めたが、のこり5点についてはtransformativeといえるかどうかを中心にフェア・ユース該当性を判断すべく、改めて地裁で審理するようにと事件を差し戻した。この点に関して、フェア・ユースが認められた25点と、差し戻された5点を比較することで、transformativeとは何かを理解する上での手がかりが得られるのではないかと思われる。また、本判決に対する補足意見および反対意見も指摘するように、果たして前記25点についても、「法律問題」として控訴裁がフェア・ユースを判断できるのか否かという興味深い問題も存在する。これらについては、今後更に検討していきたい。
以上