今まで取り組んだどの分野よりも技術の急速な進歩を実感した1年でした。
近い将来人工知能は知財法に根本的な変革を迫るのではないか、そんな
2018年1月1日
ロースクールで、知的財産法と企業内法務を担当しています@OKMRKJです。
この記事は法務系 Advent Calendar 2018の12月14日分です。
若手弁(@wakateben)さんからバトンを受け取りました。自分の参加資格は怪しいのですが、図々しいので知らないふり・・・。
インハウス志望の学生向けの企業内法務の授業も担当していますが、そこで話した内容中「二面性」というキーワードで括れるものをまとめてみました。
ほとんど、自分のための備忘録ですね m(_ _)m
外部法律事務所の行う企業法務と、企業の法務部門が行う企業法務の違いは、当事者性にあるというのはよくいわれることである。確かに、他人の問題ではなくて、自分の(会社の)問題として、法務課題に取り組むのが、企業内法務の特徴であろう。
ただ、よくよく考えてみると、企業の法務部門の当事者性は、対社外の文脈でこそ強調されるものであり、対社内では、むしろ、本当の当事者であるビジネス現場とは一線を引いた第三者性を強調しなければならない文脈も少なくないように思うのである。例えば、ある事業部の製品の欠陥で、取引先に損害を発生させてしまったとする。このとき、社外の取引先との関係でいえば、法務部門は、相手先に迷惑を掛けた当事者である企業の一員として、問題解決にあたらなければならない。しかし、一度社内に戻ってきて、問題解決を進めていく上では、当該事業部と一体になるのではなくて、一歩引いたところから、原因発見と課題解決、再発防止に取り組み、場合によっては責任追及を行わなければならない。
その意味では、(特に学生や若手の法務担当者に対して)企業内法務の当事者性をあまりに強調するのは、間違ったメッセージにならないかと心配してしまう。
ダメなものはダメといって、止めなければならない法務部門は、確かにブレーキの役目を期待されている。しかし、ビジネスを推進することこそ企業のレゾンデートルであることを考えれば、その企業の「内」にある法務部門である以上、ビジネスの推進を手助けするアクセルとしての役割も果たさなければならない。最近はやりのフレーズである、ガーディアンとパートナー、守りの法務と攻めの法務、ローヤーとビジネス・パーソン、なども、(個々に見ると色々と差異はあるものの)基本的には同様の問題意識が反映されているのだろう。
とはいえ、今更の感のある「二面性」であり、敢えて触れるまでもないとも思ったが、それだけに外すわけにもいかず、取り上げた。
契約業務に関わっていていつも思ったのは、ビジネス部門は皆楽観的であるのに対して、(だからこそではあるが)法務としては悲観的な視点を持たざるを得ないということ。
このビジネスが上手くいけば、この技術開発が上手くいけば、その先こうなってああなって、市場の占有率がこれくらいになって、売上げと利益もこんなに、というバラ色の話しを、ビジネス部門から聞かされた経験のない企業内法務担当者はいないだろう。
そんなときほとんどの法務担当者は、また水を差してしまうのか、自分でも思いながら、「そうですね。是非、そうなるようみんなで頑張りましょう。法務も全力で取り組みます・・・そこでなんですが、まあ、今のお話しのように考えづらいんですけどね、ただ、法務としては、老婆心というか役目というかですね、万に一つですね、上手く行かなかった場合の、対応策が弱いんではないかなと、現状の契約案では・・・。△△△のトラブルがあった場合はですね、こういう対策ができるように・・・」などと、1人悲観的なシナリオを踏まえた手当を説かねばならなかったりするのが、常であろう。
ただ、一方で、かなり深刻な案件で、それを関係者が皆理解しているときに、法務がいつものように悲観的な視点から取り組んでしまうと(法務にとっては通常運転なので、特に気にならないとしても)周りにとっては、後がないのではという連想につながりかねない。深刻な案件で、皆がそれを認識しているとき、法務にはむしろ、「大丈夫、なんとか解決策はあります。一緒に頑張りましょう」と楽観的な視点を提供し、皆を安心させ力づける役割が期待される面もある。
企業内法務も、外部法律事務所と同様に、クライアントの利益を最大限にすることをその使命とすべきであるのはいうまでもない。契約交渉への参加や契約書のレビューを依頼してきた現場、訴訟に巻き込まれて助けを求めてきた事業部、新規ビジネスの法的適合性について相談に来た部署、などは、皆法務部門にとって、クライアントである。そのこと自体は間違いがない。
しかしながら同時に重要なのは、法務部門にとっての究極的なクライアントは、個々の事業部やビジネス現場ではなくて、企業そのものであるという視点であろう。事業部やビジネス現場の集合体が企業である以上、事業部などの利益になることは、概ね、企業全体の利益となることは事実である。しかし、常に、部分最適と全体最適が一致するとは限らないのは、自明のことである。そのとき、直接のクライアントである事業部などのためではなくて、究極のクライアントである企業全体のために活動しなければならない。そしてこのことは、法務の看板を掲げている以上、事業部門の傘下にある法務部(課・室)であっても同じだと思う。普段は、当該事業部門の一部として、その事業部門のために業務を遂行する法務部門であって問題ないし、そうあるべきなのだが、めったにないことではあるものの、仮に、その事業部にとっての利益が、全社的な不利益につながることが(手を尽くしても)避けがたくなったとき、事業部門傘下の法務部(課・室)であっても、企業全体の利益を優先して行動する必要がある。
(同様の視点は、ブレーキとアクセル、ガーティアンとパートナーに関しても当てはまる。個別のビジネスでアクセル役を果たし、CEOのパートナーとして経営に参画する、その一方で、ブレーキとしての役目、ガーディアンとしての役目を、躊躇することなく実行に移さなければならないのは、究極のクライアントである全社の不利益が予見されるときである。)
法務の仕事は、論理で、周りをそして相手を説得することである。ただ、論理による説得は、ときに、感情的な反発を芽生えさせてしまうことがある。論理が正しく、そこに隙がなければないほど、説得される方は逃げ場がなくなり、説得を受け入れる一方で、反発心を抱くことがあり得る。一つ一つの反発心が小さくても、いつかそれが大きくまとまらないとも限らない。
反発なく、つまり、嫌々でなく受け入れてもらうためには、説得で留まらず、相手の納得を得るところまで進む必要がある。説得されて、相手が得心し、自分のことと思ったときに納得が生まれる。説得に基づく行動はどこか他律的である一方、納得に基づく行動は少なからず自律的であり、長続きする。
そのような意味での納得を得るためには、論理プラスαが必要となる。相手の立場を慮り、面子を立て、言い分を汲み取っていかなければ、納得を得ることは難しい。説得するためには話し上素でなければならないが、納得を得るためには話し上手である以上に聞き上手でなければならない。
バトンタッチは Tetsuya Oi さんへです。よろしくお願いします。
第1章 スペース・インベーダー・パートU事件
【1】大ブーム
いまから約40年前の1978年、その後たちまちのうちに、日本中を熱狂させることになるビデオ・ゲーム(当時は、テレビ・ゲームと呼ばれていた)が発売された。それは、タイトーの手による「スペースインベーダー」であった。<図1[2]>
スペースインベーダーの筐体には、ゲームセンターなどでよく見るアップライト型と最近はあまり見ないテーブル型の2種類が存在した。
業務用ゲーム機といえば、アップライド型の筐体が一般的であるが、この場合、広い設置スペースが必要となるため、ゲームセンターなどでも、導入できる台数は限られる。一方、テーブル型の筐体の場合、必要なスペースは限定的な上、既存のテーブルと置き換えるのであれば、テーブルの数だけゲーム機を導入することができる。
<図2 アップライト型[3]>
<図3 テーブル型[4]>
現に、当時の新聞をみると、お茶の水のクラシック音楽とコーヒーが自慢の喫茶店が、20台のゲーム機を導入して、売上げが3倍以上になったなどと紹介されている[5]。自身の当時の記憶を辿ってみても、実家のある田舎町でインベーダー・ゲーム[6]といえば、ゲームセンターではなくて(そもそもゲームセンターが近くにあったような記憶がない)、喫茶店に置かれているものであり、町中の喫茶店は軒並み、テーブルをゲーム機のそれに置き換えていた。大流行を支えた一つは、テーブル型筐体の存在だったに違いない。(もっとも、ゲーム機は当時で1台50万円程度したらしいので、複数台導入するのは費用負担が大変だったようにも思われるが、同じ新聞記事によると、繁華街なら1日1台で2万円以上売り上げるため、1ヶ月前後で元が取れるような状況だったらしく、むしろ先を争って導入していたようである。なお、ゲームは1回100円[7]だったが、当時小学生だった筆者の月の小遣いは数百円程度であり、高すぎた。友人達にしても状況は一緒だった。そのため、筆者にとっては、大人がインベーダー・ゲームに熱中していたイメージが強い。ブームを支えたのは、子供ではなく大人だったと思う。)
発売後1年を経ていない1979年4月の時点で、「普及台数は約10万台。年末には、25万台まで伸びるとみられている。[8]」という大ヒットであった。このような状況は、タイトー自身も予想していなかったようで、「アミューズメント・マシン・ショーに出品したところ、たちまち大反響。生産能力の10倍近い注文が殺到したという。[9]」ような状況であった。加熱する需要と、それに追いつかない供給力、その間隙を埋めたのは、後続企業の市場参入だった。ブームを受けて20社以上が、インベーダー・ゲーム業界に参入したのである。色々差し障りがあるかもなので具体名は控えるが、今では有名なメーカーも軒並み参入していた。
つりゲーム事件を例に挙げるまでもなく、現在でも、あるゲームがヒットすると、後続企業が似た感じのゲームを市場投入するケースがしばしば見られるが、当時は今とは比較にならなかった。例えば、インベーダーのデザインやトーチカのデザインが少し異なるだけとか、インベーダーの並ぶ列の数が違うだけなど、類似の程度が高いものも少なくなかったようである。「これまでオリジナル作品のコピーは、ハード、ソフト共に常識で、1社がヒット作を出すと他者が一斉に追随、互いに持ちつ持たれつの関係を保ってきた。[10]」という当時の新聞の記述を読めば、状況は自ずと知れよう。知的財産権が重視され、コンプライアンスが厳しく問われる今となっては想像もつかないが、日本も40年前はこんな状況だったのである。
ところで、ここで取り上げるのは、その中でもそっくりそのまま、まさしくデッド・コピーのケースである。
【2】訴訟に至るまで
判決を元に、訴訟に至るまでの経緯を整理しよう。
原告であるタイトー(以下、法律関係の文章の慣例に従って、Xとする)は、スペースインベーダーの改良版である「スペース・インベーダー・パートU[11]」を、1979年8月以降販売または賃貸していた。なお、スペース・インベーダー・パートUのプログラムは、裁判の当事者ではないA社の従業員が職務上作成したものであり、XはA社からその著作権を譲り受けていた。
被告会社(以下、Yとする)は、顧客から注文を受けると、顧客が保有するゲーム機(スペース・インベーダー・パートU以外のゲーム機)からCPUやROMなどが搭載されたシステム基板を取り外して預かり、それを下請けであるB社やC社に持ち込んだ。B社・C社では、Yの指示に基づき、何らかの方法でゲーム機から取りだしてたスペース・インベーダー・パートUのプログラム(以下、判決の表記にあわせて、本件プログラムという)を、持ち込まれたシステム基板上のROMに記録する作業を行った。作業を終えたシステム基板を顧客のゲーム機に取り付けると、スペース・インベーダー・パートUがプレイできるようになるわけである。つまり、Yは、顧客のゲーム機をスペース・インベーダー・パートU機に改造する作業を引き受けていたことになる。Yは、1979年9月上旬から10月下旬までの丸2ヶ月の間に合計27機の改造を行っていた。
Xは、Yの行為が、自身が本件プログラムについて有する著作権(複製権)を侵害しており、それによってXは損害を受けているとして、Yに対して損害賠償を請求する訴訟を東京地裁に提起した。
【3】判決とポイント解説
(1)プログラムは著作物になり得るか
この訴訟のポイントは大きく2つあった。ひとつは、コンピューター・プログラムが著作物になり得るか否かという点であり、今ひとつは、ROMに記録されているプログラムを他のROMに記録することが複製に当たるか否かという点であった。
「コンピューター・プログラムは著作物になり得るか?」 今となっては自明のようにも思われる問いかけであるが、当時は大問題であった。現在著作権法を見ると、著作物を例示する10条1項には、9号として「プログラムの著作物」が例示されているので、コンピューター・プログラムが著作物となり得ることについて疑問を抱く人はいないだろう。しかしながら、当時、9号は存在せず、9号を追加する法改正が行われるのは、本判決の後の1985年(1986年1月1日施行)のことであった。
しかも、著作物といえばこれまで、小説や、絵画、音楽、映画などのように、文化・芸術の分野の創作物を指してきたところ、プログラムは、コンピューターに対する指示・命令の集合体に他ならず、従来の著作物のイメージとは大きくかけ離れており、プログラムを著作物に含めることには少なからぬ躊躇があったのである。
しかしながら、そもそも10条1項は、著作物を「例示」しているに過ぎないので、そこにリストアップされていないからといって、著作物になり得ないというわけではない。著作権法2条1項1号は、「思想または感情の創作的表現であって、文芸、学術、美術または音楽の範囲に属するもの」を著作物と定義しているから、10条1項にリストアップされていないものであっても、この定義に当てはまれば著作物となる。同様に、この定義に当てはまるならば、一見従来の著作物とはかけ離れたように見えるものであっても、やはり著作物として保護されるのであって、それを排除する理由はないということになる。つまり、コンピュータ・プログラムが著作物になる得るかどうかは、著作物の定義を満たすかどうか次第ということになる。
ところで、先に挙げた著作物の定義は、一般に、@思想または感情の表現であること、A創作的な表現であること、B文芸・学術・美術または音楽の範囲に属する表現であること、という3つの要件に分解される。スペース・インベーダー・パートU事件の判決[12]は、本件プログラムが、この3つの要件を満たすことを丁寧に説明している。該当部分を見てみよう。
「本件プログラムは、本件ゲームの内容を本件機械の受像機面上に映し出すことを目的とし、その目的達成のために必要な種々の問題を細分化して分析し、そのそれぞれについて解法を発見した上で、その発見された解法に従って作成されフローチャートに基づき、専門的知識を有する第三者に伝達可能な記号語(アッセンブリ言語)によつて、種々の命令及びその他の情報の組合せとして表現されたものであり、当然のことながら右の解法の発見及び命令の組合せの方法においてプログラム作成者の論理的思考が必要とされ、また最終的に完成されたプログラムはその作成者によって個性的な相違が生じるものであることは明らかであるから、本件プログラムは、その作成者の独自の学術的思想の創作的表現であり、著作権法上保護される著作物に当たると認められる。」
先に挙げた3要件、いずれも「表現であること」で終わっていることから分かるように、著作物であるために最も重要なのは、「表現であること」である。ここで問題となってくるのは、コンピューター言語(判決中では、記号語とされている)で記述されたプログラムは、文字の連続体であり、一見、文章などと似ているようにみえるものの、それは一般人には意味不明であり、果たしてそのようなものでも表現と呼べるか否かである。これに対して判決は、コンピューター言語は、一般人には意味不明であっても、専門的知識を有する者にはその内容が伝達可能であると述べて、その表現性を肯定している。
次に、表現の対象が思想または感情であるか否か(要件@)について、判決は、ゲームを実現するという目的達成のために、プログラマは様々な解法を考えだし、それらを組み合わせる必要があるが、それは論理的思考を必要とする学術的思想であると述べている。
さらに、表現に創作性があるか否か(要件A)について、判決は、最終的に完成されたプログラムにはプログラマによって個性的な相違が生じることを指摘している(注:著作権法においては、著作者の個性が発揮されていれば創作性が肯定される)。
最後に、本件プログラムは、学術的思想の創作的表現であると述べ、「文芸、学術、美術、または音楽の範囲」に含まれる表現であること(要件B)を肯定している。
このように、スペース・インベーダー・パートU事件の判決は、ビデオ・ゲームの「プログラム」としての側面が著作物に当たり得ることを示したわけであるが、その論理は、ビデオ・ゲームのプログラムに限らず、全てのプログラムに適用されるものであり、後の著作権法改正にもつながる、大きな意義を有していたと評価されている[13]。
なお、ビデオ・ゲームの「動く映像や音楽」が、著作権法上どのように評価されるかは、この判決ではなく、次に続くパックマン事件判決で明らかにされることになる。
(2)ROMから読み出してROMへ記録することは複製か
本件プログラムが著作物だとしても、それは、アセンブラと呼ばれる変換ソフトウェアによって、CPUが理解可能な数字の羅列である機械語の形式(オブジェクトコードとも呼ばれる)に変換され、その後さらに、デジタルデータの形に変換されて、スペース・インベーダー・パートUのゲーム機のROMに記録されている。Y(正確には、その指示で下請けであるB社またはC社)は、ゲーム機のROMに記録されている本件プログラムを取り出し、それを顧客から預かったシステム基板上のROMに記録したわけである。
現在の目で考えれば、Yの行為はデジタルデータのコピーであり、これが複製に当たることに、疑問の余地はないように思われる。例えば、書類をコピー機でコピーすることと、スキャナーで読み取ってメモリーカードにデジタルデータの形式で記録すること、いずれも差はないはずである。もし、前者は著作権法上の複製だが、後者は複製には当たらないということになると、誰もが奇異に感じるだろう。
そもそも、著作権法上、複製とは「印刷、写真、複写、録音、録画その他の方法により有形的に再製すること」(2条1項15号)をいう。この内「印刷、写真・・・」の部分は例なのであまり拘る必要はないから、結局ポイントは何らかの方法で「有形的に再製する」ことになる。「有形的に再製」とはどういう場合をいうのだろうか。一番分かりやすいのは、コピー機で書類をコピーするような場合だろう。もう一つ同じ書類が出来上がるのは、有形的な再製の典型ということができるだろう。この事件でも、Yの行為の前後で、本件プログラムを記録したROMの数は増えているのであるから、Yの行為が有形的な再製=複製に当たることは明らかだろう。
もっとも、当時は、デジタルデータ形式で著作物を記録すること、またそうやって記録されたデジタルデータを別の記録媒体にデジタルデータで記録することは、いまのように一般的なことではなかった。そもそもデジタルデータ自体が身近な存在ではなかった(ちなみに、CDが発売されるのは1982年のことである)。そのため、判決は、Yの行為が複製に当たることを、丁寧に説明している。長くなるが、引用しよう。
「本件機械のコンピューター・システムのROMに収納されている本件オブジェクトプログラムは、本件プログラムに用いられている記号語(アッセンブリ言語)を、開発用コンピューター等を用いて、コンピューターが解読できる機械語(本件の場合2個の16進数を単位として表現される。)に変換した上、これを電気信号の形で本件機械のROMの記憶素子に固定して収納されていること、右記号語から機械語への変換は、右両言語が一対一の対応関係にあるため機械的な置き換えによって可能であり、そこに何ら別個の著作物たるプログラムを創作する行為は介在しないこと、このROMに電気信号の形で固定して収納されている本件オブジエクトプログラムは、ロムライター等の複製用具を用いて、他のROMに電気信号の形で収納することができるものであり、B社らは、右の手段で本件オブジエクトプログラムを他のゲームマシンのROMに収納したこと、そしてROMは、プログラムを収納すると、一定の操作によつてこれを消去しない限り、プログラムを記憶し続け、右ROM内の情報(プログラム)はコンピユーター・システムの電源スイツチが入ると中央演算装置(CPU)によつて読みとられ、CPUが順次その命令を実行し、ゲームマシンの受像機面上に本件ゲームの内容を映し出すものであることが認められる。
右事実によれば、本件オブジエクトプログラムは本件プログラムの複製物に当たり、B社らの本件オブジエクトプログラムを他のROMに収納した行為は、本件プログラムの複製物から更に複製物を作出したことに当たるから著作物である本件プログラムを有形的に再製するものとして複製に該当する。」
長いので分解しながら解説したい。
まず、判決は、(a)アッセンブリ言語を機械語に変換することは、一対一対応の機械的な置き換えであると位置づける。次に、そのようにして得られた(b)機械語を電気信号(デジタルデータ)に変換してROMに記録した場合、ROMは記録されたデータを保持し続け、後にそれを読み出すことが可能であることを指摘する。以上を踏まえて、判決は、(a)+(b)で、本件プログラムの複製にあたり、ROMは本件プログラムの複製物であるとする。そして、(c)Yが、ROMから読み出した本件プログラムを別のROMに記録することは、複製物から新しい複製物を作ることになるとする。非常に整然とした論理展開といえる。
ところで、Yの行為は(c)だけであるから、判決は(c)のみについて判断すればよかった。しかし、先にも述べたように、当時は、著作物をデジタル形式で記録することが複製に当たるかが未だ明確ではなかったため、(a)+(b)についても、念のため判断したのだろう(もし、著作物をデジタル方式で記録したものが複製物でないとするなら、それから別の記録物を作ることも複製ではないのではないか、との疑問を生んでしまう)。
(3)判決の意義
コンピューター・プログラムが著作物になり得るか、著作物をデジタル形式で記録することが複製に当たるか、いずれも今となっては、当たり前ともいえる事項である。しかし、今、私たちが当然の前提としていることが、昔から変わらず当然の前提だったとは限らないのである。今回の判決があってこそ、私たちは、先の2つを、当然の前提と考えることができるのである。その意味で、本判決は、コンピューター・プログラムの著作権による保護の先駆となった点ばかりでなく[14]、デジタル記録の著作権法上の取り扱いを明らかにした点でも、その大きな意義を評価することができるだろう。
★プラスアルファ
・ゲーム・コンピュータクラスタ向けプラスアルファ
スペースインベーダーのハードは、CPUにインテルの8080を使用していたとのこと(メモリは8KB!)[15]。パーソナルコンピュータの歴史的名機PC-8001(CPUには、i8080の上位互換であるZ80のNEC製の相当品・・・うーん分かりづらい・・・を搭載。標準メモリは16KB)が登場したのは1979年。実はその前に、身近なところに(それとは知らず)インテル製のCPUが普及していたことになる。冒頭触れたように、ゲームも画期的であったが、ハードも当時の最新技術であったことが指摘できる。
・著作権クラスタ向けプラスアルファ
この事件では、実際の複製行為はB社やC社で行われているわけであるが、判決は、
「Yが注文を受けた顧客のゲームマシンのコンピユーター・システムの基板を取り外して、これをB社らに持ち込み、右基板に取り付けられたROM又は必要に応じて追加したROMに本件オブジエクトプログラムを収納せしめた行為は、B社らをYのいわば手足として使用したもので、Y自身が本件プログラムの複製行為をしたものと評価できる。」
と述べてYによる複製と評価している。さりげない形で、手足論が活躍しているのである。
なお、この判決の署名押印欄を見ると、裁判長は牧野利秋先生であり、設樂隆一先生も合議体に加わっておられたことが分かる。
<補足>
確か、スペースインベーダー登場35周年の頃から、この「テレビゲームと著作権のXX年史」をまとめたいと思っているのだが、なかなか進まず5年が経った。今日、HDDを色々と整理していると、企画を思いついたときにまとめたパイロット原稿的なもの(の書きかけ)が出てきたので、時間の経過を加味しつつ、足りなかった分を書き足して、完成させてみた。
著作権に興味があり、を少し知っている人を主たる読者と考えてまとめたつもりだが、もっと、基本的な概念から説明しないとダメかなあと思案中。
もし、評判がよければ、第2章以降も(遅々として)書くかと思います。そのときはもうちょっと工夫しよう。
ちなみに、一応取り上げようかと思っている判決:
第2章 パックマン事件
第3章 ディグダグ事件
第4章 三国志V事件
第5章 ときめきメモリアル事件
第6章 中古ソフト事件
第7章 RGBアドベンチャー事件
第8章 ギャロップレーサー事件
第9章 釣りゲーム事件
第10章 プロ野球カードゲーム事件
第11章 TBD
第12章 TBD
[2] http://spaceinvaders.jp/about.html なお、カラーに見えるが、実際は白黒ブラウン管に、色セロハンを貼り付けたもの。懐かしい。
[5]読売新聞1979年4月13日夕刊2面参照。
[6]本家タイトーのものと、後に見る後続参入企業の同種のゲームをあわせて、当時、インベーダー・ゲームと総称したので、それに倣うことにする。
[7]参考までに、当時の大卒初任給は約11万円だった(http://nenji-toukei.com/n/kiji/10021/大卒初任給)。
[8]朝日新聞1979年4月27日朝刊8面。
[9]読売新聞・前掲注3)
[10]読売新聞1979年4月13日夕刊2面参照。
[11]タイトーのサイトによると、「スペースインベーダー・パートU」が正しい表記のようであるが、ここでは、判決の表記に従うことにする。
[12]東京地判昭和57年12月6日無体裁集14巻3号796頁。
[13]阿部浩二・著作権判例百選(第1版)35頁参照。
[14]注13参照。